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当、白川サイトの1000万ヒット超えにあたり。「私は、自民党・保守リベラル派の生き残りです」。永田町徒然草 白川勝彦

当、白川サイトの1000万ヒット超えにあたり。

永田町徒然草 白川勝彦15年10月21日



当、白川勝彦サイトのホームページにあるアクセスカウンターが、平成27年10月21日午前時45分頃、1000万ヒットを超えた。ホームページの左下に小さく表示される数字だが、これが1000万を超える瞬間を、私は大きな感慨で迎えた。そしてこの間にあった様々な出来事が、走馬灯のように去来した。実にいろいろなことがあった。感慨一入 ( ひとしお )、という表現しか見当たらない。



当、白川サイトの開設は、1999年12月1日であった。記念すべき、永田町徒然草No.1をご覧頂きたい。そこに書いてあるように、私は当時、タイピングを始めたばかりだった。また、永田町徒然草の原稿を書き終えると、それをWebマスターにメールで送って、Webサイトにupdateして貰うという方法であった。それからもう直ぐ16年となる。この間、ホームページのデザインは3回ほど変わったが、URLもWebマスターも変わっていない。こういうWebサイトは、意外に珍しいのではないか。



久しぶりに永田町徒然草No.1を読んでみたが、私の問題意識もあまり変わりがないようだ。そして、自公連立とは別に、憲法問題を正面から論じなければならない政治状況となっている。それは、当然のことだ。政治的に大きな問題が生じたとき、常に憲法に照らして、何が問題なのかを論じなければならないのである。何故ならば、わが国の政治は、日本国憲法に基づいて行われなければならないからである。



当白川サイトの最初の1~2年間は、政教分離問題が中心的テーマであった。平成12年の衆議院選挙は、私の選挙区で自公連立の是非が、最大の問題となった。創価学会・公明党が、私の選挙区に大勢押し寄せてきた。実に難儀な選挙であったが、私は精一杯戦った。残念ながら、私はその闘いに敗れてしまった。そして、平成13年7月の参議院選挙では政教分離問題を正面に掲げ、比例区に立候補した。その時の最大の武器が、この白川サイトだった。しかし、力及ばずこの闘いにも敗れてしまった。



平成14年の一時期、白川サイトの更新を休んだことはあった。しかし、それ以外は、不定期ではあるが、常に永田町徒然草を通じて私の政治的メッセージを発信し続けた。そして、それを現在も続けている。何故か ── 私が政治的人間だからというのが、たぶん最大の理由であろう。人間は、政治的動物である。政治的動物である人間は、否応なしに政治的存在である。好もうが好むまいが、政治の方から政治的存在である人間を羈束 ( きそく )する。



そうであるならば、こちらの方から政治にモノを言った方が良い。私は、大学に入った頃からそう考えるようになった。学生運動もそれなりにやったが、原点はそこにあった。20代も、いろいろなことを志向したが、その結果として、30歳の時に私は衆議院選挙に立候補することになった。それ以降、政治活動が私の仕事となった。選挙で当選しようがしまいが、選挙に立候補して多くの人々から支援を頂いた以上は、政治活動をすることが義務となる。



私は、衆議院選挙を含めて何度も選挙に立候補した。大勢の人々のお世話になった。そういう人間である以上、何らかの政治的メッセージを発することは、私の義務だと思っている。私は、特定の選挙に立候補する意思がないし、かつての支援者も、それを望んでいないだろう。にもかかわらず、私が自らの義務としてそれなりに政治的メッセージを発しているのは、“保守リベラル”としての意地である。



昭和54(1979)年の衆議院初当選から、平成12(2000)年までの21年間、私は一貫して、“保守リベラル”を政治的信条とする政治家として、国会と自民党に籍を置いた。その過程で、大平正芳総理はじめ、多くの優れた政治家の指導を仰ぎ、また、大きな支援を頂いてきた。そして、平成6年の自社さきがけ政権の樹立にはそれなりの役割を果たし、平成8年の小選挙区制による初めての衆議院選挙では、自民党総務局長として闘った。いずれも、保守リベラルの政治信条を基本として、これを行ってきた。



現在の、安倍首相が行っている政治に多くの人々が反対しているのは、安倍首相の政治的行動がおかしいと思っているからである。安倍首相も当時は一年生議員であったが、私たちが進めていた保守リベラルの政治集団に関わっていた。いわく“政教分離を考える会”、“リベラル政権を創る会”などである。安倍晋三という政治家は、変節したのである。もちろん、安倍首相だけではない。現在の自民党は、安倍首相のように変節した者ばかりと言っていい。



最近、当サイトに書いたように、私が何度も国会正門前の反対行動に参加したのも、終盤国会をわざわざ傍聴したのも、あの時に自民党を潰しておかなかった者のとしての責任を感じたからである。“あの時”とは、平成5年~平成7年頃のことである。平成5年の衆議院選で自民党は敗北し、野党となった自民党からは、毎週数人の離党者が出ていた。自民党は、崩壊の危機にあった。劇的な変革をしなければ、間違いなく自民党は潰れて、なくなっていたと思う。



自民党は、全く孤立無援であった。マスコミは、徹底的な“反自民”であった。自民党と政治行動を共にしようなどという政治勢力は、皆無であった。自民党が劇的に変わらなければ、打ってでる出口などどこにもなかった。私は、“リベラル”こそ唯一の対抗軸になり得ると考えた。そして、行動した。もちろん、最初は相手にされなかったが、必死にリベラルを訴えることによって、わずかな取っ掛りがでてきた。これを述べると、一冊の本になる。



閑話休題。私は、当白川サイトのことを敢えて、ブログと呼ばない。白川勝彦のWebサイトなのである。白川サイトには、たぶん、400字詰め原稿用紙にして3万頁を超える、私の政治的的所見や戦いの記録が包含されているからだ。これは、当サイトのWebマスターの努力のお蔭である。もう数年前から、永田町徒然草はWebマスターの力を借りないでupdateしている。これも、Webマスターが私専用のシステムを作り上げてくれたからである。



現在では、いろいろなWebサイトやブログが溢れている。その中で私が発信するモノは、ほとんどが永田町徒然草だけである。特別な情報がある訳ではない。日々生起する政治的事柄について、私の政治的論評を述べているだけなのである。しかも、その視点は一貫して、“保守リベラル”である。しかし、そこに意味があるのかもしれない。最近、“保守リベラル”がいろいろな立場の人から膾炙 ( かいしゃ )されているが、実際に存在した保守リベラルの実態を知る人は少ない。「私は、自民党・保守リベラル派の生き残りです」と、自嘲気味に私は自己紹介している。



いつも言っているように、当白川サイトへの来訪者で、ホームページから入ってくる方は13%に過ぎない。ほとんどの常連者は、永田町徒然草やRSSから入ってくる。最近では、携帯電話からのアクセスが増えている。ホームベージの1000万超えの意味は、累計で7692万人(10000000÷0.13=76923077)のアクセスがあったということである。7700万回も人々に訴えれば、必ず政治的な何かを生む。それは、長い間政治というものを見てきた私の確信である。

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