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戦後70年、北海道と戦争<特別編> 紙の弾丸を作らん 道新と戦争【特集】軍に迎合 ゆがむ報道

戦後70年、北海道と戦争<特別編> 紙の弾丸を作らん 道新と戦争

【特集】軍に迎合 ゆがむ報道

(北海道新聞)



太平洋戦争を通して、新聞各紙は「報道報国」などのスローガンの下、政府や軍部の「宣伝機関」となり、国民の戦意をあおった。多くの新聞は1931年(昭和6年)の満州事変を分岐点として軍部支持にかじを切り、日中戦争 などの戦線の拡大とともに部数を伸ばした。一方で国は、発売禁止処分や新聞統合などの統制を強め、報道の自由を奪った。新聞は戦争とどう関わり、何をし、何をしなかったのか。北海道新聞をはじめとする当時のメディアの責任を考える。

戦果強調 国民を鼓舞

戦前、戦中に札幌で発行されていた北海タイムス。北海道新聞の前身となった同紙の論説や記事をたどると、新聞が戦争に協力していく過程が見えてくる。

 

巡洋艦や駆逐艦などの保有量を米英と取り決めた1930年(昭和5年)のロンドン軍縮条約調印。同紙は「歴史的平和の一大殿堂を築き上げた。永久に記念すべき出来事」と高く評価し、軍部の反発には「(軍部の口出しは)議会政治、政党内閣制の確立、発達のためには反対」と明言した。

 

しかし、様相は1年後に一変する。関東軍が31年、中国・奉天(現瀋陽)で南満州鉄道を爆破し、満州事変が勃発。同紙は爆破を中国側の挑発と非難した。軍の自作自演が世間一般に知られるのは戦後だが、「中国側の破壊行為」とする軍部を疑うことはなかった。

 

関東軍は独断で軍事行動を拡大し、旧満州(現中国東北地方)の主要地域を占拠。翌32年に「満州国」が建国を宣言した。

「満州国は日本のかいらい」とする国際連盟のリットン調査団報告に対し、同紙は「はなはだしく偏見かつ認識不足」と反発。同年12月には全国の新聞社の共同宣言を1面に載せ、同国の存在を認めない解決案は「断じて受諾すべきではない」と、軍部支持を鮮明にした。

 

一般記事でも戦闘を賛美した。満州での軍事行動から国際社会の目をそらすため、日本軍が同年2月に起こした第1次上海事変。兵士3人が爆薬を詰めた筒を持って敵陣に突入して爆死、突破口を開いたという話を「ああ壮烈!全将士を泣かしむ 肉弾の三勇士」として紹介。脚色された武勇伝で道民を熱狂させた。

 

当時はまだ、軍部や軍人への批判も見られた。海軍将校が犬養毅首相を暗殺した32年の五・一五事件 を「いかなる場合でも直接行動を排撃する」とし、軍人テロを強い調子で否定した。

 

しかし、陸軍青年将校らが首相官邸などを襲撃、高橋是清蔵相らを殺害した4年後の二・二六事件 では「愚痴をいったところで、何の役にも立たない」と片付けた。日中戦争でも、紛争拡大をあおるような主張を展開した。

 

太平洋戦争中に創刊した北海道新聞も他紙と同様、戦果を誇張した大本営発表を大々的に報じ、戦意高揚の記事で紙面を埋めた。

 

飛行機工場で働く少年から帰りたいと願う手紙を受け取った母親が「母は(あなたを)母の子どもだとは思いません。立派な産業戦士として働きなさい」と返信。少年は心を入れ替え、話を聞いた他の少年工も奮起した―などの美談を連日のように掲載。戦争協力に向け、道民を鼓舞し続けた。

満州事変で論調一変

戦前の新聞の転換点となった満州事変の勃発前までは、軍部に批判的な論調を展開する新聞も多かった。国家財政を圧迫する軍事費の増大を懸念し、大阪朝日新聞や大阪毎日新聞は軍縮の必要性を主張。しかし、戦前の北海タイムスをはじめ、多くの新聞が事変後、軍部支持に転じていった。

 

旧満州(現中国東北地方)での日本の権益は「多くの日本人の犠牲と膨大な戦費を投じて獲得したもの」との意識が国民の中にも強くあった時代。「中国による侵害を許すな」という新聞の強硬論がきっかけとなり、国民の間でナショナリズムが盛り上がっていった。軍部批判の先頭に立っていた大阪朝日新聞もやがて、その波にのまれた。

 

一方、満州事変の勃発は、新聞経営への追い風となった。昭和恐慌で毎日新聞や朝日新聞は部数を減らしたが、事変翌年の32年には両紙とも部数が増加。中国に多数の特派員を派遣して戦況を華々しく報じるとともに、各地方版で郷土の部隊の動向を詳しく伝えた。父や兄が出征した家庭では、新聞が必要不可欠な情報源となり、戦線の拡大とともに部数は増え続けた。

 

37年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると、各紙は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な中国を懲らしめよ)を合言葉に、大々的なキャンペーンを展開。読者からの寄付で航空機を軍に献納する運動なども競って繰り広げた。その後は、自らあおった国民の好戦的な雰囲気に押されるまま太平洋戦争に突入。新聞は政府や軍部の「宣伝機関」になっていった。

新聞社に露骨な脅迫

戦前、軍部を批判した新聞は、在郷軍人会や右翼による不買運動などの嫌がらせを受けた。

 

信濃毎日新聞(長野)の主筆桐生悠々(きりゅうゆうゆう)は1933年(昭和8年)8月、「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題した社説を執筆。同月に行われた演習を「現実的でなく、実施しても役立たない」と指摘した。敵機が飛来すれば、木造家屋が密集する東京では大火災となるため、敵機を領土内に侵入させてはならないと主張した。

 

しかし、軍や在郷軍人会などは「嗤うとは何事か」と反発。当時の同紙の発行部数約2万部に対し、8万人を擁すると称していた地元在郷軍人会が不買運動を起こすと脅迫し、桐生は会社に迷惑をかけまいとその後、退社した。

 

福岡日日(現西日本新聞)の編集局長菊竹六鼓(ろっこ)は32年の五・一五事件で連日、軍部の政治関与を厳しく批判した。軍部や右翼が激しく抗議し、地元の久留米師団参謀は「軍部を攻撃するやからを撃ち殺し、自分も死ぬ」と威嚇。軍用機による本社爆撃のデマも飛び交った。

 

西日本新聞百三十年史によると、地元師団などの同社脅迫は閣議でも問題となり、当時の高橋是清蔵相が陸軍大臣をたしなめ、下火になったという。

 

不都合な報道を押さえ込もうという考えは現在にも根強く残っている。今年6月に開かれた自民党の若手議員の勉強会で、同党所属議員が「マスコミを懲らしめるには広告料がなくなることが一番だ」などと発言。報道機関に対する露骨な圧力に批判が集まった。

強まる検閲 用紙も統制

国家による新聞の統制が始まったのは明治時代以降。1909年(明治42年)には新聞紙法が公布され、「安寧秩序を乱す」などと検閲で見なされると、記事差し止めや発売禁止処分になることもあった。満州事変後は同法の違反件数が激増。事変前年の30年は504件だったが、31年に832件となり、32年には2081件に達した。

 

38年には国家総動員法が成立。政府が記事掲載を制限、禁止できると規定した。同法に基づく41年12月公布の新聞事業令は紙面の内容だけではなく、新聞用紙や営業面にまで統制の範囲を広げた。違反した場合は、首相と内務大臣が新聞事業自体を廃止することができる権限まで持たせた。

 

太平洋戦争開戦後は、大本営が許可した情報以外は一切掲載を禁止され、新聞が戦争の実態を書くことは完全にできなくなった。前坂俊之・静岡県立大名誉教授の著書「太平洋戦争と新聞」によると、43年度にはゲラ刷りなどで検閲された約9万件のうち約1万2千件が不許可処分になったとされる。

 

軍部はやがて、大本営の発表の扱いについて「これは1面トップに」などと具体的に指示するようになる。軍部に目を付けられるのを避けるため、新聞側は従うしかなかったという。

検閲で問題なしとされた記事でも、弾圧されたケースがあった。

 

毎日新聞が44年2月に掲載した「竹やりで敵の飛行機に立ち向かうことはできない。航空兵力を増強すべきだ」との内容の記事に、東条英機首相が激怒。執筆した37歳の記者は26年の徴兵検査で目が悪かったことから免除になったにもかかわらず、陸軍に召集された。さらに、露骨な懲罰召集を隠すため同世代の250人も召集された。

 

毎日新聞百年史などによると、問題となった記事は、航空兵力を充実したい海軍が絶賛。記者はその後、海軍などのはからいで除隊となった。しかし、「太平洋戦争と新聞」によると、250人は硫黄島 に送られ、全員が玉砕したという。



静岡県立大・前坂俊之名誉教授 暴走容認、加害者の一面

太平洋戦争中、新聞は言論統制で政府の発表以外の記事は書けなかった。その点だけを見ると、新聞も軍部の弾圧に苦しめられた被害者と思われがちだが、そうではない。国民に対して「勝った、勝った」とうそをつき、何も知らない国民を死に追いやった点でまぎれもない加害者だった。

 

満州事変以降、新聞各紙は猛烈な報道合戦を繰り広げ、日本軍の活躍を大々的に報じて部数を伸ばした。ただ、戦況を競って速報するばかりで、日本軍の進攻の意義や影響を検証しようとはしなかった。その結果、軍の行動を既成事実として追認し、暴走を容認することになった。

 

太平洋戦争前には、軍部を批判した新聞に不買運動が起こされた。新聞人が標的のテロもあった。先日、自民党議員が報道を弾圧するような発言をしたが、当時も今もこの種の妨害を加えようとする人間はいる。不買運動や暴力に対し、当時の多くの新聞は弱腰だった。主張すべきことを自主規制した新聞社もあった。

 

当時の国際状況を考えると、新聞が真実を書いても、戦争は避けられなかっただろう。現在でも、新聞が戦争を防ぐなどと考えるのはおこがましい。新聞の使命は「国民の知る権利」を代行するのと同時に、「真実を知らせる義務」を果たすことだ。戦前の新聞記者がその義務を放棄した責任は大きい。



36年創立の同盟通信社 政府の「宣伝機関」に

「新聞は戦争を美化せよ!」など一連の著書で、戦時下の日本社会の詳細な実像を描いてきた小樽出身の作家山中恒(84)は言う。「満州事変後の日本メディアはほぼすべて駄目だったね。中でも同盟通信は完全に政府の宣伝機関だった」

 

同盟通信社は1936年(昭和11年)、アジア最大の通信社として創立。実態は「国策通信社」だった。「情報・思想戦」を担う内閣情報部の関連史料には「同盟通信を指導して、支那関係の対外『ニュース』を正確、迅速、豊富ならしむると共に、外国通信社の内面指導をなさしむ」などの記述がある。同盟には「外交通信特別施設費」の名目で多額の国家予算も注がれていた。山中は「内閣情報部の下請けと言ってもいい存在だった」と言う。

 

同盟創立前は、地方紙との契約が中心の電報通信社(電通)と、東京・大阪紙中心の日本新聞聯合社(聯合)が競合。満州事変時は軍部寄りの電通、外務省寄りの聯合と報道姿勢も違っていた。しかし、聯合の岩永裕吉(後の同盟通信初代社長)は「国家的通信社が絶対に必要」とし、合併を政府に進言する。

 

著書「国家総力戦」で知られるドイツの軍人ルーデンドルフは第1次大戦で「ドイツを破ったのは連合軍にあらず。ロイターなり」との言葉を残した。英ロイター通信のニュースが形成した国際世論に負けたという意味だ。外務省や軍部も「国家代表通信社の強弱は、国力の消長にも影響する」(通信社史)との認識に至り、電通のニュース部門と聯合が合併するよう後押しした。

 

岩永は同盟創立記念式典でこう述べた(同盟通信社報)。「通信社は何者かの御用機関と化す惧(おそ)れのある組織であってはならない」。内村鑑三に傾倒した教養人らしい言葉だが、一方で「常に国家及公益を念とする公共機関でなければならない」とした。

 

「国策通信社『同盟』の興亡」を書いたジャーナリスト鳥居英晴(66)は「この『国家及公益』という言葉に示された国家主義が後のすべての報道を縛った」と指摘する。

 

主な配信記事は同盟旬報などに残る。37年7月7日の盧溝橋事件は北平(北京の旧称)発で8日に速報。45年8月、ポツダム宣言 受諾を最初に世界に報じるなど、事実に即して書かれた印象もある。ただし、掲示用写真ニュース「同盟写真特報」は翼賛一色。日米開戦 時は「征(ゆ)くぞ今こそ暴戻(ぼうれい)の米英撃滅へ」との見出しを掲げた。

 

同盟にも戦争に批判的な記者はいた。プロレタリア俳句運動の旗手で、中国戦線に従軍した栗林農夫(たみお)は戦争を帝国主義的侵略と考えていた。それを戦後の著作で告白。「表現の技術的方法によって侵略戦争の本質を暗示することができるという自信」があったが、結果的に戦争協力にしかならなかったと自己批判した。

 

45年10月、同盟は自主解散。職員の多くを引き継いで翌月、共同、時事の両通信社が発足した。



挙国一致で新聞統合

北海道新聞は太平洋戦争開戦翌年の1942年(昭和17年)11月、北海タイムスや小樽新聞など道内11紙が統合して創刊した。背景には、政府や軍部の思惑があった。軍事だけではなく、経済や技術、文化などあらゆる分野の力を戦争に投入する総力戦を挙国一致で乗り切るため、国策の周知や世論教化が必要と考えた政府などは、その一方策として新聞の統合を急いだ。

 

統合は当初、全国の新聞社を1社にする案が浮上したが、全国紙が猛反発。政府は全国1紙をあきらめ、「1県1紙」に転換した。42年2月に北海タイムスなど全国の新聞社104社に業界の統制団体の日本新聞会を設立させ、統合を加速させた。

 

しかし、道内の統合は難航し、しびれを切らした当時の北海道庁長官が主要7社の代表に「独立して残存しようとする会社があるが、理由を問わずその存立を許さない」と指令。各社は道庁警察部特高課課長らが監視する中で協議し、北海道新聞への参加を決めた。37年に1200紙以上あった全国の日刊紙は42年時点で55紙に激減した。

 

さらに45年3月、空襲で新聞発行が不可能になる恐れがあるとし、政府は全国紙の製作、配布を各地方紙に委託させることを決定。国民は新聞を選ぶことができなくなり、道内でも北海道新聞の題字下に「朝日」「毎日」「読売報知」の題号が併記された。

 

戦後の新聞業界は大戦の反省に立ち、46年の日本新聞協会設立に合わせ、報道の自由や人権尊重などを掲げた「新聞倫理綱領」を制定。北海道新聞も52年9月、「自由、正義、人権を尊重し、平和で文化的な国家の発展に資する」など4項目からなる独自の編集綱領を発表した。


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