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内陸の魚民 アイヌ民族史 10世紀以降サケで交易

近年、旭川付近から姿を消していましたサケが旭川まで溯上するようになり、今年も石狩川の小さな支流でサケの産卵を見ることが出来ましたが、その事に関連して先住民族であるアイヌ民族のサケ漁について面白い記事が載っていました。

内陸の魚民 アイヌ民族史 10世紀以降サケで交易

(北海道新聞)瀬川 拓郎

近年は旭川にも多くのサケが遡上するようになった。アイヌ民族はこのサケを主食にしていたといわれるが、はたしてそうだろうか。少なくとも、海辺のア

イヌ民族の主食はサケではなかった。サケを捕っていたのはもっぱら内陸の産卵場付近の人びとだ。さらに内陸の人びとが一律にサケ漁に従事するようになったのは10世紀以降のことで、それも主食というより、主に本州へ出荷するためだったとみられる。

 

たとえば、日本最大のサケ遡上量を誇った石狩川水系の場合を見てみよう。

縄文時代では富良野や空知管内雨竜町など、遡上が確認されていない川筋にも村が分布している。当時はサケが捕れなくても一向に構わなかったのだ。     

 

しかし10世紀以降、サケ漁は内陸における必須の生業になった。それはサケが食べるため以上のもの、つまり交易品になったことを意味する。それとともにアイヌ民族の村は大規模なサケの産卵場である札幌市街地、千歳川上流域、旭川市街地に集中した。それぞれの村は、小川にサケの遡上止め漁場を設け、「内陸の漁村」となった。

 

ではなぜ、海辺ではなく内陸なのか。海辺で捕れるサケは脂があってうまいが、酸化しやすく大量の塩がないと長期保存はむずかしい。一方、産卵場まで上って脂が抜けきった「ホッチャレ」は、天日に千すだけで良好な保存食となった。千したホッチャレは本州で「干鮭」と呼ばれ、貴重なタパク源として特に庶民 

のあいだで珍重された。

いわゆる「塩鮭」の出荷が始まったのは、和人が大量の塩を持ちこんだ江戸時代後期になってからなのだ。(旭川市博物館主幹)

旭川市錦町5遺跡(10世紀)の復元図。現在の自衛隊第2師団敷地内に湧いている小川は、かつて旭川西高付近で石狩川に合流していた。幅数メートルのこの小川は旭川最大のサケの産卵場だったとみられ、同遺跡もこの川筋にある
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