TPPに参加すれば社会生活の基盤になるものも米国流の市場競争主義にさらされれて日本の良き文化も破壊されて行きます
日本は、食糧、医療、教育、福祉、は地域の格差は多少ありますが、日本国中、どこであってもおおよそ同質のサービスが受けられるのが基本であり、市場競争主義を受け入れて来ませんでした。
この事は、日本の文化であり社会生活の基盤になるものは、自由競争になじむものではありません。日本の社会にとって重要な事は、個人の能力の発揮よりも社会の安定であり、人々がつくりだす組織や地域であり、全体的な平等性の確保です。
しかし、TPPに参加すればそれは全て破壊されて、社会生活の基盤になるものも米国流の市場競争主義にさらされれてしまう事があまり議論されていません。議論されているのはTPPによって日本が利益を得られるかと云う話ばかりです。今日の北海道新聞にTPPに対して違った側面から解説している記事が載っていました。
TPPめぐる価値観対立京大大学院教授 佐伯 啓思
この7月から日本は環太平洋連携協定(TPP)への交渉に参加することとなった。昨年来、賛成、反対の両論がとびかい、世論は二つに割れており、与党のなかにも賛成、反対の両論がある。つまり、たいへんに判断しにくい問題なのである。
判断しにくい理由は、もっぱら議論が「利」のレベルで行われるからである。つまり、利害得失がもっぱらの関心になっている。利害得失からすれば判断は難しい。それもそのはずで、まだルールが定まっていないのだから、利害得失を推定することはできるはずはない。事態は交渉次第だということになるだろう。
では、この「利」の議論ではなく、もっと原則的な論点はないのであろうか。私には実は、原則的な点で、きわめて重要な論点があるように思われる。しかもそれはこの間、ほとんど論じられたことがない。
TPPは規模の大きさと影響力からすると日本の場合、米国との攻防が決定的な役割を果たすが、私には、この攻防の焦点は、双方の「利」に関わるというより、両国の「価値」に関わる問題だと思われる。
米国社会にはいくつかの軸になる価値観があるが、こと近年の経済についていえば、基本的に市場競争普遍主義というべき立場にたっている。こで「普遍主義」というのは、市場競争はすべての国や地域に適用されるべきだとい意味であると同時に、それはあらゆる分野、領域に適用されるべきだということだ。
ようするに農業であれ、医療であれ、教育であれ、労働であれ、それらを自由に取引される商品として扱い、市場を形成して競争させるべし、という考え方である。原則としてすべてのものは市場競争という画一化されたルールのもとにおかれるべし、ということだ。
この市場競争主義が、衣服や自動車や電気製品やコンピューターなどといった「生産物」のレペルで唱えられている分にはさして問題はないが(もっとも米国は自動車には関税をかけろといっているが)、それが、労働や資本や土地や資源という「生産要素」や、ざらには食糧、教育、医療、福祉、さらには電力や水といった「生活関連財」にまで及んでくると深刻な問題が生じる。
雇用や労働の移勤を過度に自由化して競争にさらすと所得格差が生まれ、社会がかえって不安定になる。資本もあまりに自由化し過ぎると、まさに今日の世界のように、株価や為替の乱高下を生みだしたり、投機資本によるバブルがつくりだされたりする。
食糧にせよ、医療にせよ、教育にせよ、福祉にせよ、まずは、日本国中、どこであってもおおよそ同質のサービスが受けられるのが基本であって、それは市場競争主義でなされるべき分野ではない。それは、われわれの社会生活の基盤になるもので、自由競争になじむものではない。
ここには、「経済」についての二つの見方がある。一つは、経済とは、個人が自由に競争して自己利益をめざず活動であり、その結果として効率性が高まり、経済成長が可能となる、という考えだ。市場競争主義の立場である。もともと個人主義、、能力主義、競争主義をという価値を強く信奉している米国が、このような経済観を打ち出すのは当然であろう。
しかし、もう一つの見方は、経済とは一方で競争によって効率性を達成すると同時に、他方では社会生活の安定性を確保するものであって、市場競争原理は必ずしも、「生産要素」や「生活関連財」には及ばない、とするものである。
重要なのは、個人の能力の発揮よりも社会の安定であり、人々がつくりだす組織や地域であり、全体的な平等性の確保にある、という考え方である。
明らかに日本の価値観はこれに近い。英語で「エコノミ-」が節約や効率化を意味するのに対して、日本語の「経済」は「経国済民」であることからも、この違いは歴然としているだろう。 TPPも煎じつめると、経済をめぐるこの二つの価値観の対立であり、どちらを取るかという対立とみるべきである。