« 今朝の「ウェークアップ! ぷらす」で放送された財政再建の為の方策聞いた電話投票では増税16% 歳出削減60%と圧倒的に消費税増税を反対している結果に成りました | Main | また現役市長が負けた「安倍総裁が意気揚々と遊説に出かけた」地方の有権者の目は冷たく「自民党はこりごり・腹痛は大丈夫」かとヤジを浴びる「三党合意を反故にして今は消費増税に反対」とまで言いだした »

倉本聰さんがこの国の人々は怒りや悲しみをもう忘れたかと今の原発政策の状況について嘆いています

紅葉の色も柿の色も悲しく映った(週刊現代12月8日号)

日本人というのは、どうしてこうも忘れっぽいんでしょうね。震災の悲しみも、原発事故への怒りも、たった1年半しか経っていないのに、もう忘れてしまった。いや、考えるのを止めた、というべきかな。

日本という国は、「ブレーキとバックギアのついていないスーパーカー」だと思っています。戦争に負けた後、「成長」という目的地に向かって走り出したこの車は、物凄いスピードで前に進んでいった。たしかにその目的地には近づいているのだけれど、ブレーキがついていないから、途中で止まることが出来ない。

今回の震災、それと原発事故を経て、日本にも「ブレーキをつけなきゃいけない」、つまり立ち止まって考えなければならないという声が広がりました。これでようやくまともな車になるかと思ったんですが、それも一瞬のことでした。結局はこのスーパーカーで、走り続けていくことに決めてしまった。

僕はもう一度問いたい。本当にそれでいいのか、と。 3・11後の日本は、ますます奇妙な国になってしまった、と感じています。震災そのものの被害については、すべての日本人が心を痛め、地域の区切りを超えて、日本中の人々が「自分になにかできることはないか」と立ち上がった。

けれど、原発に対しては、まるで蚊帳の外から今回の事故をみている、そんな印象を受けます。 東日本大震災が起こってから、僕は何度も被災地に足を運びました。2010年に閉塾した「富良野塾」の元塾生が、何人か被災したこともあってね。両親を亡くした者もいたし、奥さんを亡くしかけた者もいた。その悲しみが重なった場所を、自分の目で確かめないわけにはいかなかった。福島の避難区域にも足を踏み入れました。原発事故発生直後では邪魔になるということで、最初に訪れたのは'11年の10月でした。飯舘村から川俣町に通じる峠道は、赤く色づいた紅葉が見事で、真っ赤な柿がたわわに実っていた。

ところが、身に付けていた線量計が、けたたましい音で鳴り響くんです。線量計を見たら10・88マイクロシーベルトを指していた。紅葉の色も、柿の色も、「これがセシウムの色なのか」とやるせない気持ちになりましたね。もう一つ印象的だったのが、原発から東京へとつながる高圧線の銀色の光。 昨年の夏に沖縄へ行ったのですが、沖縄を縛っている米軍基地のフェンスのワイヤーと、福島で見た高圧線のワイヤーがシンクロしてしまった。沖縄に米軍基地という「負担」を押し付けたことで日本が発展したように、福島に「原発」を押し付けて、そこから供給される電力で東京が発展した。それが重なって見えたんです。

福島原子力発電所で作られたエネルギーを消費していたのは東京の人達なのに、放射能が検出された福島産の野菜は買わず、平気で九州産の野菜なら大丈夫だと言い出す。それならそれで、東京のスーパーが募金などを募って、福島の農業補償をすべきなんですよ。しかしそうした動きはない。自分達さえよければいい、そんな病がはびこっていると思わざるをえません。

政治はもっとひどい。政府は復興庁を被災地ではなく東京に置きましたが、窓を覗けばきらびやかなネオン街が見えるような環境で、復興について真摯に考えられるわけがない。だからあんなにも愚かしい復興予算の使い方をしてしまうのでしょう。

先日もある政治家と話をしていたら、脱原発問題について発言している別の政治家のことを「あいつはアカだから」なんて言うのです。驚きを通り越して、呆れてしまいましたよ。その程度の短絡的な思考で国を動かしているのかと。いまどき「あいつはアカ」なんて分け方で物事を考える人がいますか?今の日本に人々の心を揺さぶることのできる政治家がいないのは、国民と同じ目線で物事を捉えていないからですよ。

僕はいまから40年ほど前に、北島三郎さんの付き人を志願し、1週間ほど公演に同行したことがあります。人々の心の琴線に触れ、理屈抜きに愛される---そんな彼の秘密がどこにあるのかを知りたくてね。それで分かったことなんですが、なんといっても観客とのやりとりが天才的なんですね。学歴や財力や地位など関係なく、あの人は誰とでも裸のつきあいをする。それに比べて自分は上から目線で作品づくりをしていないだろうか?と考え、そのことが仕事をしていく上での転機になりました。政治家にも少しは北島さんの姿勢を見習って欲しいものですよ。

そんな状況で選挙を迎えるわけですから、私たちはつくづく不幸です。ほとんどの政党が、横暴なことばっかり言っているでしょう。特に原発問題については、いろんな御託を並べて、自分たちの罪を正当化しようとしている。だから僕はいま、クラゲにならなきゃいけないと思っているんです。今年夏、大飯原発が再稼働した直後に、大量のクラゲが原発の海水取水口付近で発生して、出力が一時低下したことがあったでしょう。あれが僕には、「自然界の抗議デモ」に見えたんです。結局は「冷却水の注入に邪魔だから」とクラゲは殺されてしまいましたが、どんなに小さくても、声をあげなきゃいけないんですよ。

残りの人生で何ができるかを、常に考えています。50代後半の頃に、70まで生きられるとして、晩飯をあと何回食べられるか?と数えてみたことがあるんです。確か4000回くらいだったと思います。あと4000回しか晩飯が食えないと分かった瞬間、一食一食を大事にするようになりました。作品づくりもそれと同じです。あといくつ、僕は作品を残すことができるのか。この歳になると、毎回、これが最後の作品だという気持ちで挑んでいます。これは俳優の笠智衆さんから学んだことです。笠さんは、仕事を依頼すると「これが最後です」と宣言され、いつも素晴らしい演技をなさった。後がないと思えば、人は命がけで仕事ができるんですよ。

では、残りの命をかけて、どんな作品をつくるか。 これまで僕は、エネルギー問題をテーマにした作品を多く書いてきました。『北の国から』もそのひとつです。'81年に始まったあの作品の第1話には、富良野に住むと決めた五郎(田中邦衛)に、息子・純(吉岡秀隆)が抵抗する、こんなシーンがあります。純「電気がなかったら暮らせませんよッ」五郎「そんなことないですよ」純「夜になったらどうするの!」五郎「夜になったら、寝るンです」当時はまだバブルが始まる少し前でしたが、文明の進歩によりどんどん変化していく日本の中で、誰もが高揚していました。しかし僕は、日本はこんなに便利になってしまっていいのだろうか?という不安感を抱いていたのです。

そこで電化製品にどっぷりと浸っている子供達が、電気も水道もない生活の中に放り出されたら、何をどう感じ、どう動くのか?それを描いてみたいと思った。それが『北の国から』の原点でした。
日本人は便利であることが豊かさであると捉えています。しかし「豊か」を辞書で引くと「リッチであること」のあとに「且つ幸せであること」と続く。ならば、便利なことが私達に幸せをもたらしたかというと、それは違うでしょう。そういう思いを、作品を通じて伝えたかったのです。

先日も800人の聴衆を前に、こんな話をしました。「'70年代の生活スタイルに戻れば、電気使用量は現在の5分の2で済みます。だから、原発は必要ない。ただ、生活は不便になるでしょう。どちらを選びますか」と。1階席は一般の方で、2階席には高校生の団体が入っていたのですが、1階席のほとんどの人が昔に戻るほうに手を上げたのに対して、2階席の高校生たちの7割が原発を選ぶほうに手を上げました。便利な暮らししか知らない若い人達には、ケータイもコンビニもない生活など想像できないのでしょう。

それは仕方のないことかもしれません。ただ、便利さを求め続けたことの代償は計り知れないほど大きいのだということに、日本人は気づかなくてはいけないのです。インターネットやメールは便利だけれど、人々から真のコミュニケーション能力を奪い、家族のつながりを希薄な物へと変えてしまった。『北の国から』では、五郎たちは自力で風力発電装置をつくって、彼らが住んでいる廃屋に初めて電気が通るんです。それはテレビなんてとうていつけられないような電力で、小さな電球がひとつ点灯するのがやっと。でも、この光を見て純たちは心の底から喜ぶんです。このシーンを、もう一度みなさんに見てほしいな、と思いますね。

原発事故を経験して、こうした思いは強くなるばかりでした。福島を訪問した際に、避難区域に住んでいたお寺の女性住職さんと知り合いました。いまでも文通をしているのですが、彼女は福島県の象徴ともいえる安達太良山が見える場所、という一点にこだわって仮設住宅を転々としている。彼女、手紙には「ふるさと」を「古里」と書いてくるんです。二度と戻れない場所であるという意味を込めて、こう記すのでしょう。「帰りたくても帰れない古里」に対する人々の気持ちを思うと堪りませんね。ふるさとを奪った側の人間に、「それでも便利がいい」と言う資格があるのでしょうか。

作家として、いまの自分がすべきことは「ふるさと」をテーマに作品を作ることなのだと。それは自然に降りてきた発想でした。そこで『明日、悲別で』という舞台作品を作ることにしたのです。
『明日、悲別で』は、'84年に放映されたドラマ『昨日、悲別で』と、'90年に舞台化した『今日、悲別で』に続く悲別3部作の最終章となります。

あれは'82年頃のことです。ある日、富良野から車で札幌へ向かう途中に、間もなく閉鎖するという炭鉱の町を通りました。廃墟が目について、よく見ると映画館だったりしてね。かつては賑わっていた町、そしてそこに活き活きと暮らしていた人々の様子が彷彿としてくる。同時に、石炭から石油へと転換した国のエネルギー政策によって翻弄される人々の悲しみや怒りを強く感じました。それがきっかけとなり、炭鉱の若者達の群像を描いた『昨日、悲別で』というテレビドラマが生まれたのです。悲別という架空の炭鉱の町を舞台にした作品です。

『明日、悲別で』の舞台は閉山から20年が経過した悲別です。2011年の大晦日に、閉山の日に交わした約束を守り、散り散りになっていた若者が帰ってくる。結末についてはお話しできませんが、石油や石炭といった、自然を消費して生み出すエネルギーではなく、もっと人間の内に秘めたエネルギーを使うべきなんじゃないか、ということを訴えています。決して暗いものではなく、希望をテーマにした作品なんです。現実の世界も、暗闇の底には希望がある、そうであってほしいですね。

観客を感動させたいかって?そりゃあもちろん。でも、いまは「感動」という言葉が氾濫しているでしょう。おいしいアイスを食べるだけでも「感動した」と言ってしまう。その程度の感動は、当然ながら僕の目指すところではありません。僕は自分のところの役者にも、常々言っているんですよ。本当の感動っていうのは、「子宮で泣かして、睾丸で笑わせることだ」と。なんだか分からないでしょう?そりゃあ当然ですよ。言葉で説明できるわけがないんですから。何だかわからないけれど体中の内臓が連動して、自分の意図に反して鳥肌が立つとか、ワクワクするというのが感動なんだから、と。今回も、僕は全公演について回って、上演期間中も「ここをこうすれば、もっと面白くなるな」と思えば、どんどん台本を訂正します。役者は大変ですけどね(笑)。

ジャン・ジロドゥーというフランス人の劇作家が、幸せそうな顔で街を歩いている人をみて、「彼はきっと、いい芝居を観た帰りに違いない」と言った話が残っているんだけど、それがまさに僕らの仕事。報道でも政治でもなく、エンターテインメントにしか作り出せない「感動」があると思っている。僕の活動が止まるのは、まだまだ先でしょうね。

|

« 今朝の「ウェークアップ! ぷらす」で放送された財政再建の為の方策聞いた電話投票では増税16% 歳出削減60%と圧倒的に消費税増税を反対している結果に成りました | Main | また現役市長が負けた「安倍総裁が意気揚々と遊説に出かけた」地方の有権者の目は冷たく「自民党はこりごり・腹痛は大丈夫」かとヤジを浴びる「三党合意を反故にして今は消費増税に反対」とまで言いだした »