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石原という苦労を背負い込んだ橋下維新

 
石原という苦労を背負い込んだ橋下維新 
永田町異聞より(新 恭)より転載します  

都知事としての功罪はさまざま見方があろう。日中関係悪化の張本人ということも、さておこう。確かなのは、国会議員時代に、これといった実績がないことだ。その石原慎太郎が、どうやら首相の座をねらっているらしい。それも「橋下さんは義経、私は弁慶だ」と大阪市長を持ち上げ、すり寄って。

万が一、日本維新の会が選挙で大躍進し、石原が首相にでもなれば、弁慶が頼朝に豹変するのではないか。選挙目的でにわかにくっついた烏合の衆は権力を与えられると同時に主導権争いをはじめるだろう。

平家との戦いの立役者でありながら、のちに頼朝に疎まれ、自刃へと追い込まれた悲劇の武将、源義経に橋下がなるとすれば気の毒なことだ。ところで、息子の伸晃が「明智光秀」呼ばわりされて自民党総裁になれなかった仇討ちか、腹いせか、それとも積年の夢をかなえる最後のチャンスと興奮したのかはしらないが、石原に国政で何ができるというのだろう。

国会議員をつとめた25年間。環境庁長官や運輸大臣はつとめた。中川一郎、渡辺美智雄らと青嵐会をつくり、極右、タカ派のイメージでならした。『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版し話題を呼んだこともあった。しかし、その活動の多くは緻密な戦略を欠くパフォーマンスの色濃いものだった。第1作目「太陽の季節」で華々しく作家デビューし、石原裕次郎の兄としてスター性を兼ね備えていながら、彼に心酔して集まってくる政治家は少なかった。大きな政治勢力をつくりえなかった。

それでも1989年、平沼赳夫、亀井静香、園田博之らに推されて自民党総裁選に出馬したが、わずか48票しか取れず、最大派閥竹下派が推す海部俊樹に敗れた。

石原が小沢一郎を毛嫌いするのは、当時の竹下派(経世会)の事務総長として、海部政権誕生に辣腕をふるったのが小沢であるからに他ならない。

このときの怨念がいつまでも石原の心中にくすぶっているのか、海部政権時代、湾岸戦争にのぞむ米国に130億ドルの資金を小沢幹事長の一存で提供したかのごとく言いふらす。そればかりか「そのカネの一部が日本にキックバックされた」という噂まで持ち出して、小沢のフトコロに入ったと言わんばかりの話をする。

130億ドルもの巨額資金が小沢一人の指図で出せるはずがない。当時、橋本大蔵大臣らが米側の要求に苦悩し、資金拠出に同意するまでの経過は手嶋龍一著「外交敗戦」に詳しい。

それにしても、いとも軽々と他人の名誉にかかわる悪口を言える品性の粗雑さこそが、政治家としての石原慎太郎という人物の限界であろう。ただし、彼が唯我独尊、傲岸不遜な言動を続けるのは、才能と自尊心に満ちた心の底に、激しい“コンプレックス”もまた存在するからではないかとかねがね筆者は思っている。若くして時代の寵児になったゆえにこそ、人知れず抱き続ける苦悩があるのではないか。

とりわけ小沢のように常に政界の中心に居つづける存在は、石原の嫉妬の対象とはなっても、手を握る相手にはならないだろう。たとえ、官僚支配、中央集権の解体で一致できるとしても。橋下徹は、「石原慎太郎」という苦労を背負うことになった。超有名人の甘言に幻惑された自業自得ではあるが…。
 



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