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香山リカさんが なぜ私が橋下さんを批判するのかと書いています

橋下市長個人にではなく〈橋下的なもの〉に感じる違和感(香山リカ精神科医、立教大学現代心理学部教授)

橋下さんはツイッターで、自らの方針を批判する学者や識者を攻撃しています。学者や識者と呼ばれる、直接の執行者ではない人が、時の為政者や体制に自らの専門的な立場や経験に基づいて批判的な意見を言うのは、いつの時代においても重要なことと考えます。それは決して、橋下市長への個人攻撃ではありません。
 
その意味でも、“橋下現象”あるいは橋下さんの政治姿勢に対して懸念を表明してきた浜矩子さんや内田樹さんや高村薫さんといった方々に、橋下さんが感情的とも思える批判をぶつけることに違和感を覚えています。
 
かく言う私も、橋下さんの府知事時代の言動などに対して批判的な考えを明確にしてきました。どの政策や言動に対しての批判かをここでひとつひとつ取り上げることはしませんが、私が懸念を感じるのは以下の点です。

「物事を何でも極端に白黒にわけて、黒はダメと一刀両断に切り捨ててしまう」「自分に対する反対意見を徹底的に論破して否定し、多様性を認めようとしない」一方で、世間では「スピード感がある」「はっきりしている」という肯定的な評価もあります。しかし、切り捨てられる側のことを考えると、私としては、明瞭さやスピード感を素直に評価することはできません。
 
現代社会では、これほど〈橋下的なもの〉が支持される。あるいはその「風」に乗って、橋下さんがさらに〈橋下的なもの〉を尖鋭化させていくのではないか。私は、その「現象」に危惧を覚えているのです。
 
精神科医は本来、目の前の患者さんを診断し、治療するのが主な役目です。しかしもう一つ、患者さんが接する社会全体あるいはそこで傑出した存在となっている権力者や政治家について分析するのも精神医学の一つ役割であり、これまで内外の多くの精神医学者が取り組んできました。これは、社会精神病理学、歴史精神医学などと呼ばれています。つまり、私は精神科医として〈橋下的なもの〉の象徴としての橋下さんや彼を熱狂的に支持する人たちを分析し、その発言や行動に社会病理性を感じ、歴史との比較なども行いながら、警鐘を発したいと考えているのです。

橋下さんに関する私の発言を指して、橋下さんは「会ったこともない人を精神病呼ばわりしている」と批判されています。
 
ネット上でも同じような批判が書き込まれていますが、これだけははっきりと申し上げておきます。 私は、橋下さん個人が病気だとは言っていません。 確かに、大阪市長選挙の際は反対陣営の平松さんを応援する中で、これまでマスコミで報じられている橋下さんの特徴を分析し、そこに見られる心理的傾向を類推する発言はしました。それでも、橋下さんご自身を病気だと“診断”したわけではありません。
 
私は橋下さんにお会いしたことはありません。橋下さんがおっしゃる通り、お会いしたことも、というより治療関係にもない人に確定診断を下すことはできません。いえ、もし万が一、お会いした人に「この人、病気なのでは」と思ったとしたら、もっと言えるはずはないじゃないですか。実際にこれまで対談などを通して社会的地位のある人に、病的傾向を感じたことは何度もありますが、逆にそういう話はいっさい公にはしていません。
 
私は、社会的な発言をするときのルールを自分に科しています。まったくメディアに出ていない一般の人については批判しません。メディアに日常的に露出している公人、あるいは犯罪にかかわった人物などに限定しています。
 
そのうえで、例えば公人を批判する場合は、見ている人にはわかりにくいかもしれませんが、マスコミで公開されている発言や行動に限って分析対象として、これまで経験してきた中での似たパターンを提示することにとどめています。「この方がこういうことをおっしゃるということは、こういうことが起きている可能性があります。だとすれば危険な兆候ですね」という具合です。
 
つまり、そういう人が登場してきた背景に存在する社会現象を通じて社会を読んだり、時代精神を読んだりしているのです。ただ、その分析には社会現象を象徴する個人が含まれることもあります。触れざるを得ないときには、細心の注意を払います。
 
繰り返しますが、橋下さんご自身の内面的なことを問題にしているのではありません。私は、テレビやネット、新聞や雑誌などのメディアに流れていて、誰にでも触れることのできる橋下さんの発言や行動から見えてくる〈橋下的なもの〉に対して物を言っているだけなのです。個人的にお会いしたとしても、その印象を公の場で語ることはありません。仮にその方の精神的な何かを感じたとしたら、なおさら普段の言論にも注意深くなるものです。精神科医という仕事柄、多くの人に誤解を与える恐れがあるからです。

橋下さんは、私たちのような批判を向ける人たちに対し、テレビの討論番組に出演することを要求しています。しかし、こうした問題は、テレビなどの公開討論の場で勝ち負けを競うような性質のものではないのではないでしょうか。意見の違いが、ディベート技術の競い合いで発展的なものにつながると思えないからです。
 
短時間で行われる公開討論のなか、その場の感情や雰囲気でやり取りをしても、見ている人にライブとしての面白さは提供できても、それで相互の意見の理解が深まるものでしょうか。私がなぜ社会病理的なものを感じているかという点について、もし橋下さんがお聞きになりたいと思われるのであれば、落ち着いて推敲した文章という形でお渡しすることはできると思います。
 
それでも、と言われたら、もちろんテレビの前で議論することもあるかもしれませんが、仮にその場のディベート技術で橋下さんに言い負かされた形になったとしても、今後の政策や言動を見て行く中で、「おかしい」と思うことは「おかしい」と言うと思います。
 
私が問題だと感じている現象がある限り、見て、分析して、言うべきときには批判的な意見を言うということに変わりはありません。ただ、なぜ自分が得意とするテレビ討論というフィールドでのみ、論戦を交わそうという手法にこだわるのかがわからないのです。

私は高齢化社会をテーマとした、政府のある委員会に参加させていただいております。その会合でこんなことをおっしゃる方がいて、とても印象的でした。「こういうことを決めるときには、窓口を一本化するなどという効率化も大事だが、ある種のリダンダンシーも必要じゃないか」リダンダンシーとは冗長性のことです。この場合、必要最低限のものだけでなく、ある程度の余地や重複がある状態を指しています。
 
例えば、買い物に不自由している高齢者の方がいたとします。その対策として、高齢者のための「御用聞き」のような制度を作ります。御用聞きが必要な物をすべて買い揃えることで、高齢者の負担は軽くなります。仮にそうした制度ができても、地元の商店に買い物に行きたいと考える方もいるでしょう。御用聞きの制度ができたからといって地元の商店を廃止するのではなく、どちらでも選べる状態にするのが望ましいという考え方です。
 
同じような行政サービスは二ついらない、それは税金の無駄だと考えるのが現代の風潮です。しかし、場合によっては、同じようなものが重複していることも、大切なことではないかと思うのです。ハローワークで仕事を探しても見つからなかった人がいたら、効率化が徹底された社会では、ほかに仕事を探す場所はもうありません。

しかし、完全に情報を集約する仕組みも漏れや誤りはつきものです。そんな時、違うところにも仕事を探せる場所があるほうが、豊かな社会だとは言えないでしょうか。それは探す人の気持ちや性格によって選択肢が増えることでもあります。
 
過度に効率化が叫ばれている現代社会だからこそ、こうしたリダンダンシーという視点も忘れないようにしたいものです。

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