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何故日本に国策として推進してきた原発に「安全神話」が必要だったかと云うNHKスペシャルを見て

11月27日のNHKスペシャルを見ましたが、何故日本が国策として推進してきた原発に「安全神話」が必要だったか良く解りました。

その放送内容の詳細です。
(11月27日のNHKスペシャル)
東京電力福島第一原子力発電所4号機では今も残された瓦礫が爆発の凄まじさを物語っている。事故が起きた時、4号機は点検中で原子炉に核燃料は入っていなかった。メルトダウンを起こした3号機から大量の水素が流れ込み、爆発したとみられている。長年信じられてた原発の安全神話はもろくも崩れ去った。国策として原発を推進してきた国の責任者たちが取材に対して、自ら失敗の損失を語った。また、国から原発の安全対策を任されてきた東京電力の幹部たちは、その内実を語った。当事者たちの証言から事故の真相に迫る。

安全神話~当事者が語る事故の深層~
第1章 安全神話の誕生
東京電力福島第一原発が建てられたのは今から40年前の1971年。アメリカから最新技術を導入し、東京電力が初めて造った原発だった。国をあげて推進していた原子力発電は絶対に壊れることはないとされてきた。原発を造る際に満たすべき基準を定めた国の立地審査指針では万一の事故が起きても公衆の安全を確保するという理念が掲げられてきた。指針を作ったのは国の原子力委員会の専門部会。後の原子力安全委員会。当時、日本には原発を造る技術はなく、ほとんどの原発がアメリカから輸入したものだった。その為、指針もアメリカを参考に作られた。アメリカでは原発を建てても良い基準にについて、低人口地帯を設けるよう義務付けていた。しかし日本では、深刻な事故は起きないことにして、事実上、低人口地帯を設けなくても建設を認めることにした。

さらに取材を進めると、アメリカの指針にあった、ある重要な対策が盛り込まれなかったこともわかってきた。それを決めたのは当時、原発の設置許可を担っていた科学技術庁。盛り込まれなったかったのは重大な事故が起きた場合の対策だった。住民の避難が立地の条件となれば、原発を造ること自体が難しくなると考えられていた。福島第一原発から30km以上離れた福島・飯館村には、人が住めなくなるほどの放射性物質が降り注いだ。

事故が起きた東京電力福島第一原子力発電所では、すべての電源が10日間に渡って失われるという前代未聞の事態が起きた。その結果、原子力を冷やすための装置が機能しなくなり、核燃料が溶け落ちる深刻なメルトダウンを引き起こした。1977年に作られた安全設計審査指針では電源喪失した場合の対策を定めていたが、30分程度の短時間のケースだけだった。

長期間の電源喪失が考慮されなかった指針をめぐって、1980年代に原子力安全委員会で議論が行われていたことがわかった。メルトダウンを起こしたスリーマイル島原発事故では、安全装置が働かず起きないと思われていた事故が初めて現実のものとなった。1960年代アメリカでは、ニューヨーク大停電が起こったが、日本では電源の信頼性が高いとして特に対策をとる必要はないという意見が大勢を占めたという。この時、原子力安全委員会に提出された電力会社のデータでは、過去の約20年で日本で起きた停電はほとんどが30分以内だったので、原発の電源も短時間で回復できるとされた。さらに、東京電力は電源の信頼性を示すために確率論という考え方を用意していた。しかし、この計算には外部からのリスクは入っていなかった。

東京電力の元取締役で福島第一原発の電源設備も手がけた宅間正夫さんは、電源喪失の確率は低く、それが現実に起きることはないと考えるようになっていったという。国や電力会社は、外部の人にも原発は安全だと説明していくうちに、自らが作った安全神話に縛られていった。

安全神話~当事者が語る事故の深層~
第2章 安全神話の拡大
東京電力福島第一原子力発電所の事故は、原発事故の中で最も深刻なシビアアクシデントとされている。シビアアクシデントへの対策は国ではなく、すべて東京電力の自主対策に任されてきた。1980年代後半、電力会社と監督官庁の通産省との間で、このことについて密かに協議が行われていたことがわかった。きっかけは、1986年に起きたチェルノブイリ事故。問題になったのは、シビアアクシデント対策を国の規制の対象にして義務付けるかどうかだった。

このとき、全国の電力会社の意見を束ねていたのが東京電力。各地の電力会社はシビアアクシデント対策を国から義務付けられることに一斉に反発した。原発の安全性を訴えてきた電力会社は、国の規制を受け入れればシビアアクシデントの可能性を認めることになり、これまでの説明と整合性がつかなくなると考えた。一方、監督する側の通商産業省の中でも規制にすることへの慎重論があった。その大きな理由は国が抱えていた泊原発訴訟などの裁判だった。裁判への影響を抑えたい国と地元の混乱を避けたい電力会社の思惑が一致した。

この問題を最終的に判断したのが原子力安全委員会。1987~1992年頃、シビアアクシデント対策について議論を行なっていた。参加していたのは科技庁・通産省の担当者や電力会社だった。委員会に大きな影響力を持っていたのは電力会社で、そのデータがなければ議論は進まなくなっていた。1992年、原子力安全委員会はシビアアクシデント対策を国の規制の対象としないことを決めた。

東京電力はシビアアクシデント対策にどこまで取り組んでいたのか福島第二原発の所長などを務めた笛木謙右に聞いてみると、国から明確な基準が示されない中、どこまで対策にコストをかければいいのか民間企業として判断するのは難しかったと話した。日本のシビアアクシデント対策の責任の所在が曖昧になっていった背景には、「事故は起きない」という安全神話の広がりがあったと多くの人が証言している。福島・南相馬市は津波で大きな被害を受けた。今回の原発事故のきっかけになったのは津波という自然災害だった。事故のあと、国や東京電力は想定外だったと弁明。

安全神話~当事者が語る事故の深層~
最終章 安全神話の崩壊
津波対策について原子力安全委員会で議論が始まったのは2001年になってから。議論のきっかけは、北海道南西沖地震など日本各地で大きな地震が相次いだことだった。議論は5年に渡ったが、ほとんどが地震に費やされ津波についての議論は深まらなかった。

2006年にまとまった耐震設計審査指針では、津波についての記述はわずか2行のみ。施設の安全を守るよう記されただけで、具体的な想定や対策は示されなかった。津波という自然現象の推定まで実質的に電力会社の自主対策に任された。東京電力は過去500年の間に起きた地震のデータをもとに分析を進め、最大で5.7mの津波が福島第一原発に押し寄せるという試算を出し、堤防の高さは10mあるため新たな対策はほとんど必要ないとした。しかし、地震調査委員会の指摘で東京電力は改めて、明治三陸地震を想定して見直すことになった。原発に押し寄せる津波の高さはこれまでの想定を大きく超える10.2mに達し、新たなリスクが浮かび上がった。この試算が出たのは2008年だったが、東京電力はこの時、国に報告しなかった。

東京電力が津波の試算を報告したのは今年の3月7日。その4日後、東日本大震災は起きた。そして、原発に押し寄せた巨大津波によって安全神話は打ち砕かれた。取材した人たちの多くは、今回の事故について反省の弁を述べた。福島第一原発が廃炉になるまでには、30年以上もかかると言われている。

この放送を見て感じた事は、絶対に安全と言ってはいけなかった事を、原発を立地稼働させる為には、事故は絶対に起きないと決めないとしょうがなかったことであり、また、今まで事故対策を何もしなかったのは、絶対に安全だという神話がまかり通ってきた為に地震など、明日明後日に起こることはないだろうと云う楽観的考えに支配され、事故の可能性がある、と外に向って言うことは殆ど不可能で相当勇気のいると云う事でした。


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