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中国・朝鮮人の道内強制収容所構想・石炭生産維持へ労働力確保 暴動封じ込め狙う 報告書にじむ民族差別と北海道新聞に記事が掲載されました

中国・朝鮮人の道内強制収容所構想・石炭生産維持へ労働力確保 暴動封じ込め狙う 報告書にじむ民族差別と北海道新聞に記事が掲載されました。この事は昔子供時代に父親から聞いていた事でした。

現在の中国・韓国・北朝鮮の行いは酷いものですが、この様な行為がなかったと云う一部の日本人も認めて、現在の中韓の行いを非難するべきと思います。

戦後 直後、道内の中国人と朝鮮人の労働者を収容する「コンセントレーション・キャンプ(強制収容所)」の建設計画があったことが、外務省外交史料館(東京)の外交資料で分かった。構想段階とはいえ、ナチス・ドイツのアウシュビッツを連想させる、民族差別の色濃い施設だ。

46年版原文修正、表現薄める
強制収容所の計画が登場する出張報告書は2種類ある。1945年作成の原文と、翌年、関係者配布用に印刷された46年版。46年版は、修正が多い。中国人を指す「支那人」を「華人」に替え、不法行為に「殺人」とあったのを削除。函館の自転車盗の話なども消した。「コンセントレーション・キャンプ」は、ただの「キャンプ」になった。
 
46年版は1977年、外務省の戦後外交文書公開の第3弾に選ばれて、外務省編「朝海浩一郎報告書」として出版された。差別的表現を薄めたせいか、問題視されなかった。原典の45年版が東京の外交史料館で閲覧可能になったのは、2003年。2番煎じとみられたのか、これも注目されなかった。


コンセントレーション・キャンプ計画 1945年11月4日、札幌で開かれた
連合国軍総司令部(GHQ)の会議で、朝海浩一郎・終戦連絡中央事務局第1課長が、道内の中国人、朝鮮人労働者を帰国させる前に、コンセントレーショ
ン・キャンプに収容したいと提案。 日本の敗戦により、待遇改善を求めた動きを「暴動」と危険視し、治安維持を狙った。
 
コンセントレーション・キャンプとは一般に、ナチス・ドイツのユダヤ人強制収容所など非人道的施設を指す英語。米軍もこの提案に同意したとされるが、中国人、朝鮮人の帰国を最優先した結果、トラブルは減り、キャンプも建設されなかった。

逃亡13年、言葉忘れかけた人も
席占明・社団法人北海道札幌華僑総会代表(86)=札幌=の話1958年2月、石狩管内当別町の洞穴で、劉連仁さんが見つかりました。劉さんは44年、空知管内沼田町の炭鉱に強制連行され、45年7月に脱走。戦争終結を知らず13年間、山中を逃げ回りました。 発見時、私は通訳をしましたが、彼は言葉も忘れかけていました。 道内には、中国人が2万人以上連行され、3047人が死にました。そんなことをしておいて、強制収容とは…。補償と謝罪要求の日本での裁判も、却下続きです。残念です。

 計画を記した「鮮支人炭坑労務者問題二関スル北海道出張報告書」は全文21ページ。中国人、朝鮮人の「暴勣」に対する危機感で貫かれている(原文はカタカナ。読みやすくするため、平仮名にした)。
 
例えぱ、「怠業、金品強要、殺人を行い無警察状態を呈し」「炭鉱街は戸を閉ざし恐怖時代を出現せしめ」報告書を書いた朝海浩一郎・終戦連絡中央事務局第1課長が、連合国軍総司令部(GHQ)の米第8軍バラード大佐らと視察したのは、札幌、登別、室蘭、函館など 報告書は言う。

「登別ではヽバラード大佐自身がヽ中国人の無銭遊興を現認し逮捕させた」  「室蘭の港湾労務者は、仕事をせずに賃金をもらい、支払いを拒むと暴力を振るう」函館で自転車窃盗は毎日15~20件に上る」 朝海課長は「日本側には手の下し様なき実情」と嘆く。

会社、警察と衝突

実は「暴動」の相手は、戦争中、強制連行に関わってきヽ炭鉱会社や警察が多かった。 炭鉱は坑内作業員として受け入れ、警察は護送や逃亡の捜査に携わった。「北海道警察史」(北海道警察編、1968年刊)はこう書く。
  
「日支事変(日中戟争)の拡大に伴い労務者不足から朝鮮人を半強制的に移入し、太平洋戟争突入からは、中国共産党軍、国府軍の捕虜などを移入した。
終戦時、稼働していた朝鮮人、中国人は9万1千人。労務者は十分な衣食も与えられず、労働を強いられ、終戦と同時に怒りを一気に爆発させ」
  
「主な暴動事件」として警察史が挙げるのは10件。うち6件は会社、警察との衝突だ。 例えぱ8月15日、歌志内で朝鮮人600人が「戦時中の虐待に抗議する」と炭鉱事務所を包囲し、傷害、暴行をはたらいた。警察官200人が出動した。
 
9月19日、美唄の中国人と朝鮮人労働者計2000人が退職金などを要求、警察官延べ400人と衝突した。 

朝海諌長の報告書は中国人、朝鮮人労働者の帰国前の集団宿泊施設を不適切な英語で表現しただけ、と読むこともできる。「帰国の近いことを周知し不安を取り除く」「待遇は日本人労務者と同様」などの記載があるからだ」。
 
だが、ドイツに進軍した旧ソ連軍が、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を解放したのは1945年1月。ユダヤ人虐殺は公になり、ニュルンベルク国際軍事裁判に向けた戦犯捜査が始まる。

日本でも同年9月、米軍が駐日ドイツ秘密警察の代表者を箱根で逮捕、という新聞記事が出る。外務省はコンセントレーションキャンプの意味を知りうる立場にあった。
 
強制連行の研究者で、美唄市教委の白戸仁康前委員長はこうみる。「日本政府は、戦犯として追及されるのを何より恐れた。労働者を旱く祖国へ返してしまおう、何か起こる前に1ヵ所に集めてしまおう、という腹だったのではないか」
 
しかも報告書は「必要と認むる場合は全道の華人(炭鉱労務者以外も含む)を数カ所のキャンプに収容す」と、無差別とも読める収容を主張している。
広島市の藤本安馬・毒ガス島歴史研究所顧問(85)は「暴動防止や早期帰国と取り繕っても、放っておいたら犯罪をしかねない連中という予断と偏見がある。まさに民族差別だ」と批判する。

藤本さんは被差別部落出身で、少年時代陸軍毒ガス製造工場務。戦後、中国の毒ガス犠牲者ヘの謝罪の旅を続けている。「戦争中、日本は神の国で、中国、朝鮮は劣等民族と敦育された。
差別される自分が、差別してどうなる、と気づいた」と話している。


道内へ16万人超
 
日本中国友好協会北海道支部連合会の鴫谷節夫理事長(75)=小樽市=らは、中国人労働者の実態を調べ続けている。
  
鴫谷さんは「『暴勣』と過大に言って、自分たちのしたことを隠そうとしたのでは」 とみる。判明した中国からの連行数は2万人以上。3047人が死亡した。芦別の炭鉱のように、600人の半数近くが死 んだ企業もある。
  
警察史も、44年度だけで、大陸から1万3674人を「供出」し、1年以内に1257人が死亡したとする。朝鮮人は、道が1999年の調査で、太平洋戦争中の移入を14万5千人、敗戦時の生存者を約8万人と推定した。
  
致府が暴動に厳しかったもう一つの理由は石炭だ。当時のエネルギーの中心だが、危険な坑内作業を担っていた中国人、朝鮮人の就労拒否で生産が激減する。
 
10月下旬、米軍は「北海道所在炭鉱における鮮支市民に対する布告」を出した。
その中で、「米軍は鮮支人の利益を十分尊重す。米軍駐屯には石炭が是非必要につき是非鮮支人の協力をお願いす。日本側の不法なる取締振りは厳重処罰すべきも、鮮支人の治安かく乱行為もまた許容されず平穏に職務に従うベし」とした。

■コンセントレーション・キャンプ計画年表
1937年7月7日盧溝橋事件、日中戦争始まる1941年12月8日日米戦争始まる
1945年8月15日日本が無条件降伏。歌志内の朝鮮人炭鉱労働者が戦争中の虐待を会社に抗議、9月赤平、美唄、夕張、三笠で中国、朝鮮人と炭鉱会社、警察が衝突、10月下旬米軍が「鮮華市民」に炭鉱で働くようお願いの布告、11月4日札幌の会議で日本がコンセントレーションキャンプ計画を提案、11月10日北海道出張報告書を作成米軍は中国人、朝鮮人の旱期帰国を急ぐ、1946年8月北海道出張報告書を修正、1977年外務省、修正した報告書を公開、2003年報告書原文を公開


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