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今回起きた福島原発事故はその事を日本に教訓として残してくれるでしょうか

今回の福島第一原発の事故は、いろいろな見方がありますが、事故が『人災』と捉える人も多いのですが、事故そのものが『人災』なのではなく、安心できない人々に『安全』を押しつけ、原発網を日本国中に張り巡らし『原発政策』を強引に推し進め、原発は『安全』だから『安心』と教えたことの『嘘』こそが『人災』と考えた方がよいと思います。

今回起きた福島原発事故はその事を日本に教訓として残してくれるでしょうか。

福島第一原発現場の作業員の方々や、大災害以来、指導者の立場にいる人々にとって、3月11日の出来事は、生涯で最も劇的な記憶となると思います。大災害の間の、福島第一原発の制御室での経験をすれば、反応として、ショック状態になってしまうことは容易に理解できます。
システムが損傷し、センサーや他の装置の情報データを収集するものが、検査し、再調整するまでは、信頼することができなくなってしまえば、現場の作業員が状況について理解していたこと全てが、彼らを誤った方向に導くようになります。
闇の中に座って、技術者が理解していたのは、システムが完全に破壊したこと、電源が復帰するまでは、正確なデータを得る手だてが無いことでした。現場で最初に対応した緊急作業員の人々は、即座に彼らが直面する状況が、その後の原発事故処理にずっと対応していかなければならないとは、理解していなかったと思います。

日本の政府で、日本の原子力計画や施設の、安全に本当に配慮している人は皆無です。福島での大災害以来、日本の政治家達の努力は、原子力政策やエンジニアリングに対し、何一つ具体的な対応が出来ませんでした。
逆に、この悲劇的で、最も犯罪的な事は、あらゆる面での不適切な管理と、誤った指示で、過去数十年の原子力災害を、繰り返し発生してきた事実に適切に対処してこなかった為に起きた結果です。
私たちは常に原子力エネルギーに、"安易に"頼って来ましたが、私たちが作り出した技術からは、事故が起きた時の救済策は何も確立して来ませんでした。
将来我々は、この大災害とその影響を振り返り、現場の人々がおかした間違いや、技術者達が、ミスを指摘されたのに、設計修正を嫌がったことなどを知ることになると思いますが、しかし自ら罪を認めるべきなのは、建築業者、技術者や、技師ではなく、彼らのずっと上の人々です。
原子力経済という国の要素を作り上げ、最初の地震や津波の前後に危険やリスクを知る立場にいた人々です。
歴史上、ほぼ全ての大災害はこの様に同じパターンで繰り返して来ています。複数の大小のミスや事故は何時も起きます。その中のどれも個別には壊滅的では有りませんが、常にミスや異常な出来事が積み重なり、それに適切に対処してこなかった時に大惨事が起きてしまいます。

チェルノブイリの原子力災害を生き延び、勇敢な原子力作業従事者ヴァレリー・アレクセーヴィッチ・レガソフの記事がその事を物語っています
ヴァレリー・アレクセーヴィッチ・レガソフは著名なソ連科学者で、1988年春、チェルノブイリの悲劇から二周年当日の彼の死は、ソ連原子力業界を震撼させた。19864年月26日のチェルノブイリ大災害当時、レガソフはクルチャトフ原子力研究所の第一副所長になっていた。
彼の役割は、大災害の原因を調査し、危険緩和策立案を支援することだった。彼は極めて真摯な科学者だった。"ソ連の原子炉で、いつ何時大惨事が起きても不思議はない"レガソフは会議でそう言い続けたが、いつも言い分は聞き流されるだけだった。彼は常に大惨事を予感しており、原子力研究所では様々な形式の原子炉の安全性を判定すべく、専門家集団を組織し、倦まずに働いていた。
最初の犠牲者達がモスクワの病院に着く頃には、レガソフはチェルノブイリ原子力発電所に到着していた。労働者達が暮らすプリピャチの町に到着するずっと前に、赤く輝く空に気がつき、それが原子炉の火事によるものであることを初めて悟ったのだ。
レガソフは実際に起きたことを、原子炉は爆発し、その中にあった全てが、燃えているか、原子炉の外部に排出されてしまったことを最初に理解した人物だった。
チェルノブイリに到着した後、レガソフはヘリコプターに搭乗し、空から原子炉の損傷を確認しようとした。後に、損傷を詳しく調べ、除染計画を立てるため、軍用車両に乗って、原子炉建屋に近寄った際に、彼も膨大な線量の放射能を浴びた。大災害の前までは、化学者としての経験で有名だったが、現場の状況と原子炉の設計と機能についての彼の知識が大災害の収拾に寄与した。
彼は、爆発の被害範囲内の住民を避難させるべきだと要求した最初の人物であり、政府幹部は、核科学者の言葉に耳を貸すことを拒否し、行動をしないことは犯罪的であり、直ちにやめねばならないと主張し続けた。
4月27日の昼、原子力発電所で働く人々が住んでいるプリピャチの地元ラジオ局が、とうとう避難命令を放送した。最初の爆発とメルトダウンから約36時間後だ。レガソフや他のソ連指導者達は、避難の後、避難した人々は、街路に雑然と立ち並ぶ無人の家で暮らすことは決してないのを知っていた。恐怖の為に動けなくなった人々のおかげで、避難が妨害されるようことを絶対におこさないため、避難する人々は、そのことを知らされていなかった。午後2:30までに、45,000人の住民全員が、わずか数時間のうちに送り出され、プリピャチの町は軍と原発で働く人々だけが残るゴースト・タウンと化した。
5月5日、政治局会議のため、レガソフはモスクワに戻ったが、彼が到着すると、仲間は、彼の体が爪から髪の毛に至るまで放射能被害を受けているのを見て驚いた。レガソフは妻と家族のもとに帰宅したが、一目でわかる急性放射能被曝の影響、放射能焼けを見て、妻は心配した。レガソフは、わずか35分だけ自宅で過ごすと、会議出席のため急いでクレムリンに戻った。政治局では、住民の放射線被曝許容線量を10-50倍に上げることが提案された。住民を安心させ、世界向けに、元気の出る良い報告を持って急いで戻らせるべく、影響を受けなかった地域に、ジャーナリストを送り込むことも決定された。
大災害の現場で、誰よりも長期間、三ヶ月以上も過ごし、致死量の放射能を被曝したこのソ連科学者は、すぐに自分の健康への影響を感じ始めた。測定値のために仕事を続けることができなくなってしまうような命令が出される可能性があったため、この謙虚な指導者が、しばしば線量計を隠していたため、彼の総被曝線量は全く不明だ。
1986年8月、国際原子力機関の会議に出席したレガソフは、ソ連の傀儡となり、過去3ヶ月にわたり、自らの生命を犠牲にして収集したチェルノブイリ状況の本当の事実には触れず、ソ連の原子力業界幹部から提出するように与えられた、検閲、編集された情報を語ったのだ。
500人以上の人々がひしめく部屋で、彼はこの情報を報告した。危機に直面した際、制御の権化の如くみなされた博識で勤勉な科学者の一言一句を人々は進んで受け入れた。
チェルノブイリ大災害二周年の日、レガソフはソ連政府に彼の計画を提出し、ソ連科学の進歩の為に、既存の障壁も乗り超えることになっていたが、彼の案は拒否された。
科学者は職場に出かけ、私物や写真をまとめて自宅に持ち帰った。彼がこう言うのが聞こえたと言われている。「悲しいことだが、結局、チェルノブイリは、我々の教訓には全くならなかった。」ワレリー・レガソフは自殺したが、チェルノブイリは、設計上の重大な欠陥に苦しんでいたこと、クルチャトフ原子力研究所彼や他の科学者たちは、そのことを大災害のずっと前から知っていたことを明らかにした詳細なメモを残していた。
チェルノブイリ悲劇まで、ソ連政府は、ソ連の原子炉の弱点に関する全ての情報を、国家機密として隠蔽していた。チェルノブイリ以前に、原子力発電所では無数の事故が起きていたが、チェルノブイリ原発の技術者達は、自分たちが動かしている装置に関連するリスクを知らなかった。
彼の死後、チェルノブイリ原子炉で使用されていた制御棒の設計上の欠陥は、機密扱いを解除され、修正された。1996年9月20日、ロシア大統領、ボリス・エリツィンは、チェルノブイリにおける彼の勇気と英雄的行為に対し、レガソフにロシア連邦英雄の名誉称号を授与した。
生物ロボット、あるいは、除染作業従事者といわれる人々は、大量の放射能を被曝しており、現場で働いた人々のみならず、彼らの子供や孫たちにまでも、驚くほど癌が増加している。
原子力計画に関与していた科学者達は、チェルノブイリで、初めて決断を下し、犠牲者数を計算しなければならなくなった。状況を収拾しようとして、最初の重要な数時間になされた努力の多くは、直接、現場にいた人々の死をもたらす結果となった。チェルノブイリは、クレムリンがその基盤から、どれほど信頼できないものであるかをまざまざと示し、ソ連という国の棺桶にとって最後の釘ともなった。

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