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原子力政策は国策として進められた為にすべての異論が排除されました

原子力政策は国策として進められた為にすべての異論が排除され、また新指針ができても対策は「事業者の自主的な対応」に任されていました。

現在、福島第一原発事故はいまだ収束の見通しが立たず、混乱と不安を引き起こしています。世界唯-の原爆被爆国でありながら、日本は再び深刻な攻射能汚染の危機に直面しています。
かつて科学者らが原子力を「夢のエネルギー」と例えた「国策」事業のどこに問題があったのでしょうか。

日本の原子力政策を推進してきた斎藤伸三・元原子力委員会委員長代理(70)や、元東芝エンジニア諸葛宗男・東大公共政策大学院特任教授(64)らの話が北海道新聞に載っていました。

第2次世界大戟で原爆を投下された経験を持つ日本。核の恐ろしさを知る国で、なぜ原発がエネルギー政策の柱になってきたのか。

戦後、日本の原子力政策が動きだしたのは、米アイゼンハワー大続領が1953年に国連で行った「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」演説が
きっかけだった。翌年、国会で超党派が提出した原子炉予算案(2億5千万円)が可決。これに日本学術会議が声明を発表し、①研究の民主的運営②国民の自主的運営③一切の情報公開-の3原則を唱えた。

原子力の黎明期を知る木村逸郎・京都大名誉教授は「当時、賛否で学者がしのぎを削った。だが、敗戦の原因は米国のような科学力がなかったからだという推進派の主張が最後に通った」という。原子力は産学官あげた国策事業となった。

安斎育郎・立命館大名誉教授(放射線防護学)も「原子力の安全性を求める声を、『非科学的だ』として徹底的に排除したことが、安全への過信につながった」とみる。安斎教授は福島第2原発1号機の設置許可処分をめぐる公聴会に科学者として参加、安全性を疑問視して反対意見を述べた経験を持つ。

共鹿党の吉井英勝衆院議員は昨年、衆院経済産業委員会で、大地震などによる電源喪失や炉心溶融の可能性を指摘したが、原子力安全・保安院は「そういったことはあり得ないだろうというぐらいまでの安全設計をしている」と答弁している。

安斎教授は「長年、反原発派の意見が、すべて『イデオロギーの違い』という論理に置き換えられてきたところに問題がある」とみる。

だが、推進派の姿勢は事故をきっかけに軟化している。福島第1原発がある
大熊町などを選挙区とする自民党の古野正芳衆院議員は「自分としては原発はもういいという心境」と、原子カエネルギー利用を立ち止まって検証するべきだと言う。

京大の木村名誉教授も「反対意見でも、建設的であればもっと耳を傾けたい」とする。
原子力行政の改革を求める意見も出てきた。阪神・淡路大震災当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は「原子力政策を進める経産省の下に安全規制を行う保安院があること自体が無理」と話す。海江田万里経産相は20日の衆院経済産業委で、原子力安全・保安院を経産省から切り離し、原子力安全委と統合する組織再編に言及している。

斎藤伸三・元原子力委員会委員長代理はヽ取材の初めに「関係者として心からおわびしたい」 そう言って口を真一文字に結んだ。各地の講演会に呼ばれ、原子力の安全をPRしてきた。「話を聞いてくれた人に会わせる顔がない」

4月上旬、日本の原子力研究者16人が連名で、「国の総力を挙げ問題解決に当たるべきだ」とする緊急提言を発表。同時に原子力の平和利用を進めた立場として謝罪した。斎藤氏は16人のうちの1人。原子力工学が専門で、1960年代以降、曰本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)の職員として、原発の設計、安全評価にかかわってきた。

「津波に対する評価は甘かった。長期の全電源喪失も、思いもよらなかった」と振り返る。東京電力の調べで、福島第1原発を襲った津波の高さは14~15m。想定した最大高さ(5・7m)の約3倍に達した。
  
「ただ、私は地震学者でなかった」。侮恨の念をにじませる一方で、戸感いも隠さない。
 
東大地震研究所は、今回の津波が明治三陸津波(1896年)と貞観津波(869年)と震源がほぼ重なっている可能性を指摘する。だが、東日本大震災前はデータが古いなどとして、一部の地肩学者が訴えていた警鐘を大半の地震学者は一顧だにしなかった。地震の専門家さえ重視しなかったデータを、原子力学者が着目するのは不可能だと云う思いだ。

70年に東芝入りし、燃料サイクル開発など原子力の第一線に身を置いてきた諸葛宗男・東大特任教授も緊急提言に名を連ねた。
「原子力界全体が反省すべきだろ。(産学官の)原子力村と呼ばれる独特のカルチャ-の中で、推進する仕組みが旧態依然のままきた」と強調する。

原発の安全性の問題の本質はどこにあるのか。
諸葛氏は06年に現職となってから、産学官の専門家有志で「原子力法制研究会」を立ち上げ、09年には日本の原子力施策の課題を浮き彫りにする中間報告をまとめた。
 
中聞報告は、06年に新耐震指針ができても、既存の原発に指針を適用させるた
めの具体的な対策は「事業者の自主的な対応」になっている点を問題視。
諸葛氏は「自主的な対応では限界があったことが、今後、論じられるのでは」という。
実際、経済産業省原子力安全・保安院によると、福島第1原発について、東京電力から新指針に基づいた新たな津波対策は拳げられず、改修なども行われなかった。
 
斎藤氏も、一度立ち止まって根本から安全性を問い直す議論ができなかったと
認める。「自然の力に対する謙虚さが足りなかった。念には念をという多重防護体制は自然災害にはとられなかった」

原子力界では分野ごとにそれぞれの専門家集団が固まる。互いが壁をつくりタコツボ化し、「他の分野に双方が口だしをせず、その道の専門家を尊重する空気が漂っていた」。
 
菅直人首相は事故を受け、2030年までに14基以上の新増設を掲げた政府のエネルギ-基本計画の見直しを表明。
原子力発電に対する逆風と不信感が社会を覆う。それでも、斎藤、諸葛両氏とも原子力推進の姿勢に変化はない。
  
諸葛氏は「失敗の上に新技術が生まれる。エンジニアとしてもそんな思いでやってきた」。斎藤氏も事故のマイナスの経験をプラスに生かすべきだと訴える。
「世界の最先端をいく規制、審査体系を構築し、透明性を持った規制を進めていく」と決意を新たにする。
 
代替エネルギーの待望論も高まっているが、諸葛氏は「風力は風が不可欠で、野鳥対策も求められる。太陽光は雨天に発電できない。新たな投資が必要で、ばら色ではない」と慎重だ。

斎藤氏は、今も商業原発は54基あり、継続して進めなくてはいけないという。「化石燃料は二酸化炭素を出し、公害問題も起こす。リスクとベネフィッ。ト(利益)を常にみないと。曰本人はどれだけ原子力の利益を享受してきたか」と問いかける。
 
だが、今回の事故は原子力が人間には制御困難なエネルギ-であることをまざまざと見せつけた。大量の放射能漏れのリスクもなくなっていない。
  
「原子力は人類のためのホープ(英語で希望の意味)」。原子力委員会が発足した翌年の1957年に日本原子力産業会議が発刊した「原子力読本」にはこう書かれている。

★原子力行政の流れ★
原子力委員会=原子力の開発・利用の大まかな方針づくり
原子力安全委員会=原子力の安全確保について審議
経済産業省 原子力安全・保安院(NISA)=原発の設置許可申請にあたって安全審査
独立行政法人 原子力安全基盤機構=原子力安全・保安院の支援

★原子力委員会★
原子力基本法に基づき、1956年に原子力の開発・利用についての基本方針を決めるため、内閣府に設置された組織。約5年ごとに見直す原子力政策大綱を策定している。原子力船むつの事故を契機に、78年に安全規制に関する原子力安全委が分離・独立した。 現委員は委員長の近藤駿介東大名誉教授ら5
人。ほかに6部会があり57人の専門委員を抱える。安全対策では、原子力
委は大筋の方向性を示すのみで、経産省原子力安全・保安院が1次チェッ
クし、原子力安全委が審査内容を2次チェックする仕組み。安全委も内閣
府に置かれ、元東大教授ら専門家5人で構成。耐震など分野別に約400
人のスタッフを擁する。

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