美しい日本とは
妻の父は戦前国鉄に勤めその後、満州に渡り、満州鉄道に勤めその地で徴兵されました。もともと電信学校で教育を受けていましたので、初年兵の期間が終わるとすぐに憲兵学校の試験を受け、卒業後憲兵として入隊しました。
任務は主に通信傍受だったそうです。
その満州での日本兵の傍若無人ぶりは、話すことが出来ないくらい横暴なものだったそうです。
敗戦のとき義父は最後まで任務についていたのですが、関東軍がソ連軍に降伏し崩壊した後、ソ連軍の国際条約違反の行為により捕虜になり、タシケントに抑留されました。
そこではレンガ作り等の仕事をさせられたそうですが、かなりの捕虜が寒さと飢えの為毎日のように死んで逝ったそうです。奇跡的に帰国できたのは終戦から5年後のことでした。
日本に帰国後もとの国鉄に戻ろうとしたのですが、憲兵隊にいた職業軍人と言う事でB級戦犯と成り公職追放になりました、その為もとの国鉄への復職は出来ませんでした。
また、抑留の為軍人手帳も無く軍人恩給も受ける事が出来ませんでした。しかし、満州時代の憲兵だった頃に日本の母親宛に出した手紙が残っていましたので、それを役場に提出し、これ以上の証明はないと役場の人に認められて初めて軍人恩給がもらえました。
しかし、本来国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰ればその捕虜の所属国が支払うことになっています。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基づき賃金を支払いました。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払いませんでした。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するように成りましたが、日本政府は未だに賃金支払を行っていません。
シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせています。
これが、悲惨な戦争と外国に侵略(諸外国の情勢から必要に迫られていたが)して捕虜になった愛国心に燃え日本の為に戦った若い兵士の実態です。
戦後保障も未だにまともに出来無い国を美しい国と呼べるでしょうか。
この様な実態を知らない若い世代に昔の日本をもっと知らせて本当の美しい日本とは何かと言う事を考えてもらいたいものです。